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鑑賞の夏ひとつ

かねてより真夜中の散歩が好きだと語っていますが、徒歩だとコースが限定されて飽きるので、たまに自転車でサイクリングも楽しんでおります。最近は夜中になっても猛暑が過ぎて汗だくになるので、水源に行って頭から冷水を浴びるとこの上ない心地良さを味わることができます。先日、お気に入りの場所へ行き、星空を眺めているとツーーーと小さな光が真っすぐ夜空を横切っていきました。以前、天文台の人に教わりましたが、この独特の光の動きは間違いなく国際宇宙ステーション(ISS)です。ものすごく小さいし、数分で通過してしまうので偶然見つけることができたのはなかなかラッキーで珍しいものを見れたなぁと嬉しい気分で帰路についていたら、下り坂のカーブを曲がり切れずに顔面から路肩に突っ込んで救急車で病院送りとなりました。激突した瞬間「あ、頭蓋骨と鼻潰れた。ああ、こうやって人って大怪我で後遺症負ったり死ぬんだ」というのが頭に浮かびました。結局、顔面裂傷と前歯や首の頚椎は折れましたが、幸い、大事には至らず、現在は元気を持て余すほどに回復しております。安全のために自転車用の明るいLEDライトを購入して使い始めたばかりでしたが、もう夜の自転車は辞めます。みなさんもくれぐれもお気を付けください。

さて、熊本ではついに梅雨明けが発表され、いよいよ夏本番となってまいりました。夏始め、ふと思い立って熊本県立美術館へ行って来ました。
熊本城の二の丸駐車場に車を停めて美術館へ向かって歩いていると、新緑生い茂る木々の向こうに藤崎台球場の巨大なナイター設備が見え、奥から大きな歓声が聞こえてきました。青い空にカッキーン、ワーッのトッピングは夏の風物詩です。
現在開催中の展覧会は「ホキ美術館展」です。いわゆる超写実やスーパーリアリズムと呼ばれるジャンルの絵画で、よく「写真のようだ」と表現されます。肯定的な意味で写真のようだと言うのはいいのですが、否定的な意味合いでそう言われることも多々あります。「ただそっくりに描いてるだけ」「別に写真でいいじゃん」ということでしょう。無知で愚かな感想なので、わざわざ取りあうのもなんですが、同じテーマで撮った写真でも人によって撮る写真は全く違うように、絵画でも、いや絵画ならなおのことリアルに描いてもその表現は全く違います。技術や意図や表現が作者によって全く違うのに、超写実絵画を写真と同列に扱うのは知識の無さや感性の乏しさを自ら露呈しているようなものです。もちろんジャンルとしての超写実が嫌いだというのは好みの問題なのでよく理解できます。私自身、超写実作品でも当然画家によって全く表現が異なりそれぞれに画風もあるので、もちもん好きな画家もいればそうでない画家もいます。私はこの展覧会では島村信之さんの作品が一番好きでした。

平日の午後でしたが、なかなかに盛況だったホキ美術館展。今回はずっと先延ばしにしていた「展覧会の鑑賞方法」について、そろそろ紹介しようと思います。美術館の楽しみ方を語る上で根幹といってもいい内容なのに、これまで語らなかったのには理由があります。

≪鑑賞方法≫
・人によって違う
・作品のジャンルによって違う
・作品の大きさによって違う
・美術館によって違う
・混み具合によって違う
・自身のスケジュールによって違う
・体力によって違う etc...

とまあ、なにより「人によって楽しみ方が違う」というのが一番なので、適した鑑賞方法も違うし、正解はないので紹介するのにためらいはありましたが、ただ一例として、参考にしていただければ幸いです。

私の場合、人気の展覧会でも寂れた常設展でも、基本的にまずは作品に近寄ったり列に連なることなく入口から出口までほとんど止まらず歩きます。全体の構成を見て、ある程度どこに誰のどんな作品があるか等をざーっと把握します。これをする理由のひとつ、また利点は、体力や集中力問題の解決です。多くの鑑賞者は、入り口から一点一点、向き合って鑑賞しては隣の作品に進みを繰り返していると思いますが、十中八九、同じ密度で終盤の作品まで鑑賞することはできません。一点一点鑑賞する人は興味のない作品も「見なきゃ」という気持ちで無駄に鑑賞し体力を消耗していると思います。余談ですが、ブックオフで参考書のような本を捲ると線や文字の書き込みがされている本がしばしば見受けられますが、最初の熱量で最後の方まで書き込みがされている本は私の経験上ブックオフにはひとつもありません。もちろんそうなった本は売ることができないという理由もありますが、最初だけがんばっちゃって集中力が続かないのは美術鑑賞も似ているなぁと思います。
出口の方まで行ったら、ある程度気になる作品をつまみ見しながら入口の方へ引き返します。その後は、入り口のパネルの挨拶文を読んだり、章ごとの紹介文を読んだり、キャプションを読みながら作品見たり、作品は見ずに椅子に座ってのんびりしたり、ひとつの作品だけをじっくり鑑賞したり、とにかく自由にします。そして、これらを数往復し、最後に名残惜しい作品をもう一度見て出るというのが基本的で大まかな流れです。もちろん時と場合によって変わり、順路通り見ていくこともあるし、面白くないときは即退場することもあります。

全体の鑑賞の流れは上述の通りですが、続いて作品個別の鑑賞方法です。都会の美術館だと鑑賞慣れしている人や絵画経験者も多く、作品から少し離れて鑑賞している人もよく見かけます。しかし、実態はその離れてみるという行為に満足し、その効果を最大限に活かしている人は少ないように思います。例えば浮世絵程度の小さな作品は間近で見ないとなにが描いてあるかわかりませんが、美術館に展示されている作品は大人が両手を広げて持つぐらいの大きさ、号でいうと100号前後の作品や、二人がかりで持つような200号以上の作品もざらにあります。屏風や襖絵も大きいです。襖絵はもちろん元々ふすまですし、屏風は風除けや間仕切り、殿様の威厳を示す背景になるようなものなので当然巨大です。そこまで極端に大きくないとしても、数歩下がって見て効果が出るのはせいぜい座布団サイズの作品でしょう。ケースバイケースである誤解を恐れずに言えば、教室の広さの展示室で30号の作品(リビングの大きめのテレビぐらい)を見ていたとして、振り返って見てください。反対側の壁に掛かっている作品との距離、それが作品全体を見るときに最低限取りたい距離です。実際、私は一つ一つ作品を丁寧に見るときは至近距離で作品の細部を見たら次は振り返って背中側の作品を眺めてそれに近づき、次はまたその背中側の作品をというようにジグザグに鑑賞する方法もとります。その際、基本形は展示室中央を拠点に全体を眺めて気になった作品のところから始まります。100号程度の作品の場合、10mぐらい離れて見てやっと作品全体を見ることができます。座布団~100号程度の作品なんて展覧会ではざらにありますが、それらを数歩下がった程度で全体を見る効果が表われるとはあまり思えません。私が鑑賞者の列に連なって見ることに否定的なのは、最初に述べた体力と集中力の問題に合わせて、この作品との距離感が適切に取れないという理由も大いにあります。大きな作品があったら是非、展示室の思いっきり遠い端っこ、20mでも30mでも離れたところから見てみてください。ジーっと見たりボケーっと眺めていると、近くで見ていた時に気付かなかったことをきっと感じることができます。

ちなみに、前の鑑賞者に連なって作品を見る場合、途中で流れが詰まってくることが頻繁にあるのですが、自由に動いていればぽっかり空間が空いているところを選んでその作品を独占することができます。さっきまですごい人で溢れていたフェルメールでも、運が良ければ一対一で対峙しフェルメール時間を堪能することができるかもしれません。日本では無理か。

ところで、私は誰かと美術鑑賞をする機会は滅多にありませんが、誰かと一緒に鑑賞するときはお互いに感想や発見を述べたりお喋りしながら見るのもいいなぁと思います。今日はご婦人2名が色々作品についてお話しながら鑑賞をしていたら監視員のおじさんに「もう少し声を落としてください」と注意を受けてましたが、私は美術館でも図書館でも過剰に静かにする必要はないという考えです。面白い話しだとついつい耳をそばだてて聞いてしまいますし、親子や恋人、友達同士で会話をする光景はほほえましく感じます。直島のような現代アートを鑑賞する場所へ行くと、若い女子2人組がいることが多いのですが、友達とアートと自然のスポットを旅行して、楽しそうに写真を撮ってというのがものすごく素敵な関係で良い旅行の仕方だなぁと思えてなぜか親心のように愛おしさと切なさが芽生えます。ひとりだと自分の中にある以上の感想は出ませんが、今回の展覧会ではある2つの作品について、それぞれのモデルの女性がどのような感情なのかをふきだし型の紙に書いてみようというコーナーがありました。他鑑賞者の感情が見れるこういう企画は大好物です。品のない趣味ですが、神社の絵馬や、七夕の短冊、来館者ノートは必ず見てしまいます。今日、個人的に秀逸だと思ったふきだしは「このニトリのシーツ気持ちいい」と「雨の予報だったのに晴れてきた。こんなことなら出掛ければよかった」です。

私は長年の美術館巡りで自分に合った鑑賞方法を確立しましたが、稀に誰かと一緒に美術館を訪れると、必ずと言っていいほど同行者は新しい発見を私に与えてくれます。昔、19世紀のフランス絵画の展覧会を一緒に見に行った人がいます。ひとりでオランダにフェルメールを見に行くぐらい美術好きであったその方は、鑑賞者の列に連なり一つ一つ丁寧に鑑賞するタイプの人で、鑑賞は別々にし、鑑賞後にカフェで作品について話しをしたのですが、ある作品について「この女性の切ない表情が好きだった」とポストカードを見せて紹介してくれました。鑑賞中に私は全く気付かなかったのですが、確かにとても印象的な表情の女性がそこにいました。15年程前に一度だけ鑑賞を共にしただけの方でしたが、このことは私の鑑賞の記憶に深く刻まれています。なので、美術鑑賞の方法に正解はありません。みなさんも自分に合った方法でこの夏の美術鑑賞をお楽しみください。


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大分美術紀行

「雨は線になって降るのでしょうか」
昔読んだ小説の中で盲者のおばあさんが主人公の少年に尋ねました。作品名は思い出せませんが、今でも雨が降るとこの言葉を思い出します。
浮世絵などではしばしば雨を線で表現しますが、肉眼で捉えることの出来ない降雨は、終着の飛沫や波紋となって初めて目で認識できます。
先日、九州の梅雨入りが発表されました。七十二候では梅子黄(うめのみきなり)。梅の花は2月頃のイメージですが、この時期の梅雨や梅子黄に「梅」という字が使われるのはなぜか、おなじみ諸説ありで、このような雑学としての雑学は興味が生じず一切覚えられません。

病的なほど知らない所へ行くことを求める私の体は、休日の度に地図とにらめっこをしています。行ったことがなければどこでも良いというわけでもなく、なんとか琴線に触れる場所を探していますが、「どこも行く所ねーな」と、結局休みの多くを台無しにしています。
散々苦悩した末、金銭面を考慮し、大分方面へ行くことにしました。一応、大分は九州内において最もアートが盛んな県です。その中で、行ったことのない国東半島にある「不均質な自然と人の美術館」へ行くのが今回の旅の第一の目的となりました。

大分県立美術館 一泊二日の初日は「大分県立美術館」へ行きました。
現在、企画展は『福田平八郎展』をやっています。福田平八郎の可愛らしい鳥やデザイン性のある構成、写実的な静物など、好きな方ではあるのですが企画を見たいというほどでもなかったので、常設のみ鑑賞しました。8、9年ぶりに訪れる大分県立美術館、大手の美術館なので常設でも十分見ごたえはあるはずと思っていましたが、びっくりするぐらい心に響く作品はありませんでした。幸い、エントランスなど無料のエリアにあったミヤケマイさん、高橋禎彦さん、須藤玲子さん、マルセル・ワンダースのインスタレーション作品がよかったので、なんとか嫌な気持ちにはならずに済みました。
不均質な自然と人の美術館 二日目に国東半島を周って「不均質な自然と人の美術館」へ行こうと思っていたのですが、直前になって調べて休館日だということを知りました。事前に調べることが苦手な性格なのでよくあるミスですが、さすがにちょっとがっくりでした。まあ、しょうがないので、もうひとつの目的である由布院の美術館へ向かう前に、別府の市立美術館へ行くことにしました。
別府市美術館 「別府市美術館」の先入的な印象は、あまり企画展や常設の展示替えはしないような郷土資料、郷土作品タイプの美術館でした。ところが、行ってみたらこれが予想外に 良質の美術館でした。
展示室は近代洋画、近代日本画、現代洋画、書画、立体、版画、工芸、観光漫画、民族資料、郷土玩具、世界玩具、貨幣等があり、量においては申し分ありません。
質に関しては、現代洋画はほぼ知ってる作家はいなかったものの、近代洋画では田崎廣助、小磯良平、小出楢重、梅原龍三郎、宮本三郎、荻須高徳、安井曾太郎、林武、三岸節子、猪熊弦一郎など、近代日本画では橋本明治、堂本印象、山口華楊、前田青邨、村上華岳、福田平八郎など、錚々たる面子が名を連ね、作品自体もちょこちょこ良いものがありました。版画では私は存じ上げなかったのですが、木村利三郎の作品が多く、欧州の都市を題材にしたシリーズはけっこう好きなタイプでした。
書は門外漢ですが、荒金大琳という書家の作品がとても魅力的で印象に残りました。キャプションに小さな黒いリボンが付いていて、調べると今年お亡くなりになったようで、おそらくそのための喪章でした。今年、声優のTARAKOさんが亡くなられたときに長崎で『さくらももこ展』をやっていて追悼文が掲示されたのですが、キャプションに喪章が付けられているのは初めて目にしました。
15畳の和室2部屋を開け放ち、六曲一双の屏風ひとつのみを展示している部屋もありました。美術館や資料館、旧家を訪れると和室の空間があることは珍しくなく、私は誰もいない和室を訪れた際は畳に座り、香りを感じたり、静寂の中でボーっとするのが好きです。ここでは更に作品を超至近距離で見れたり、屏風の裏側までも観察することができました。
民俗資料室は昔の農耕具や装身具、生活用具等の展示で、こういうのは普段、ざーっと流し見する程度なんですが、他展示施設と比べてもおそらくひとつひとつが良品で、キャプションも小まめにあったので気付けば長いこと見入ってしまいました。
再度、絵画の展示を見てるときに気づいたのですが、展示品のほとんどの作品に説明文が書かれていました。当たり前の様で、実際これはかなり珍しいことです。喪章にしてもそうですが、美術館自体は古い文化センターのような簡素な雰囲気でとくに監視員もいないような恒常展示の美術館であるのに、ここまで学芸員さんの息遣いを感じるのは稀有で素晴らしい美術館だと思います。久しぶりに良い美術館に出逢うことができ、悩んだ末に大分に来た甲斐がありました。
COMICO ART MUSEUM YUFUIN 思いの外、別府市美術館で長居してしまい、更にそのあと展望台に行ったりしてのんびり過ごしましたが、最後に今旅のもうひとつの目的地である「COMICO ART MUSEUM YUFUIN」へ行きました。
由布院にある現代アートの美術館です。建築は隈研吾さん。現代の建築においては地場の素材、伝統を取り入れた上で近代的なデザインをするというのはもはや本流ではありますが、やっぱり世界的な建築家の作品は画一的とはならず新しい体験を与えてくれるので楽しいです。美術館は外壁内壁の素材はもちろんのこと、椅子やテーブルの素材、天井や床、扉、案内表示、ガラス、置いてある小物に至るまでこだわっていることも多いので、訪れた際は壁や床などを触ってみたり、天井を見上げてみたり、トイレを覗いてみたり、椅子があれば実際に座ってみるのもお奨めです。
近年はSNSなどで建築の写真をオシャレに撮って載せているフォトグラファーも多くいますが、「建築や芸術作品の写真って、よっぽどフォトグラファー独自の視点じゃない限り作者の作品だろう」と自分自身の行為に対しても常々懐疑的に思っていました。しかし、今回は純粋に撮りたいと思ったので気にせず撮ってみました。
以下の写真数点をもって今回の〆とします。
ちなみに、こちらの美術館は先の別府市美術館とは逆に、キャプションの一切が排されていました。以前、広島の記事でも触れましたが、通常必要とされているものをあえて無くすという考え方は大好きです。
Photo camf camf camf camf camf


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狼煙未だ上がらず

5月31日、夜半、数刻前より降り出した雨音を聴きながらキーボードをカコカコ押下しています。

「さみだれ突き」というドラクエの技がありますが、五月雨(さみだれ)の意味は「梅雨の長く続く雨」や「立て続けに」というイメージ通りの意味で相違ないようです。五月と書きますが、旧暦の5月なので現代では6月の梅雨時期を指します。普段なにげなく聞く言葉を、その言葉・単語のイメージからなんとなく理解したつもりでいても、そのイメージと本来の意味に齟齬があることはよくあります。

無駄話し 「敷居が高い」は、その言葉のイメージと実際の意味が異なる代表的な例でしょう。私は本来の意味での敷居が高い場所が明確に2カ所あるのでこの言葉を聞く度に重圧を感じます。
いきなり団子の「いきなり」の意味は「簡単にできる」や「急な来客があってもすぐできるからOK」みたいな説があるらしいですが、製造過程を考えると全く意味が合わず信憑性に乏しいので私は信じていません。
ちなみに熊本では「とりあえず」のことを「さしより」と言いますが、広島では「たちまち」と言い、居酒屋では「ほいじゃ、たちまちビールで。」になります。私が広島で「たちまち団子」をオープンしても後世の人間が勝手に間違った由来を語ることでしょう。
ところで上述した「〇〇になります」という言葉はよく使われますが、「お待たせしました、こちらハンバーグになります」というファミレス用語のようなものを間違いだというマナーおばさんがいますが、私はこの言葉が間違いだという意見こそ間違いだと思っています。
マナーおばさんからすれば「あら、ハンバーグになるってことは今はまだ牛さんか豚さんってことかしら」と言いたいみたいですが、この「なる」は変化の「なる」ではなく、完成品を指す「成る」に相応する言葉だと私は思います。「この包みにございますはお代官様のご所望になられました師宣の春画に相成り候。いまは交わりし生身の人間で、後に好色の絵になるという意ではございませんので悪しからず。」
では、なぜファミレス店員が「お待たせしました、こちらハンバーグになります」という言葉を使うのでしょうか。私の考えですが、おそらく日本語のリズムが主要因でしょう。テーブルに持って行き「お待たせしました、ハンバーグです」と言い切ると違和感があり、よほど様になっていない限り、客は一瞬きょとんとしてしまうような気がします。かといって、仮に大衆的な安価の定食屋で「ハンバーグでございます」なんて大仰に言おうものなら、丁寧過ぎて逆にTPOのPをわきまえていない慇懃無礼な奴といえるでしょう。
日本人がどれだけリズムを重視するかというと「ファストフード」のことを「ファ~ストフ~ド」と呼ぶことから察していただければ幸いです。
ところでのところで、ハンバーグといえば肉汁が重要というのはミスター味っ子を読むまでもなく判りきっていることではありますが、みなさんは「肉汁」をなんと読みますか。「にくじる」でしょうか、はたまた「にくじゅう」でしょうか。昔、なにげなくグルメ番組を見ていた時、ロケ先で新人のアナウンサーが「にくじるが~」と言っていたのを、先輩アナウンサーが「にくじゅうね」と言い直していました。私は「にくじるって間違いなの?」と思って調べてみました。すると、どちらの読みでも間違いではないが、どうやら放送用語では「にくじゅう」で統一されているようでした。「依存」というのを私は「いぞん」と読みますが、おそらくNHKの放送用語では「いそん」という読み方で統一されているようです。
ちなみに「農作物」はみなさんどう読みますか。これは「のうさくぶつ」が正しい読み方です。「農」が付かなければ「作物(さくもつ)」と読むので間違えやすいのでしょう。これは放送用語独自の読み方ではありませんが、テレビでアナウンサーが間違って読んでいるのを聞いたことがないので、おそらく放送用語の中で間違えやすい読み方として取り扱われているのではないかと推測しています。ラジオのパーソナリティーなどはしばしば間違って読んでいます。
アナウンサーがテレビでニュースを読み上げる際に「世界一」という言葉を「せ」にイントネーションを置くか「か」にイントネーションを置くかで読み直している姿を目にしたことがあります。普段、プロフェッショナルが故にあまり意識されることのないアナウンサーの背景にある知識量や努力の痕跡を垣間見た瞬間でした。
言語学とまではいわなくても、言葉を生業にする人の言葉や、然るべき立場の人間の言葉、一般人が使う言葉に目を向けると面白い発見に溢れているかもしれません。

前回の投稿から長く期間が開いてしまいましたが、その理由は多忙ではなく怠惰によるところです。「マイペースこそ長続きの秘訣」との考えを言い訳に、放置しすぎてしまいました。
前回の投稿後、当初は暇だったわけではなく、2月、3月はデザイン事業のホームページ制作に掛かりっきりだったのですが、ちょうど完成するタイミングで仕事と私生活が安定してしまい、すっかりハングリー精神を失い、自己を律する事も敵わず、意欲が無くなってしまいました。
元来、憎しみや苦しみや恨みなど、負の感情をバイタリティーにしていた身として、安寧は向上の最大の敵でした。
惰眠貪る日々にいったい何をしていたのか、自分でもわかりませが、おそらくSNSのショート動画をスクロールするような毎日だったのでしょう。

『哲学やアイディアは歩くことより生まれる』というのは以前よりの持論ですが、マラソンランナーのような者らは走っているときにいったい何を考えているのでしょうか。
ランナーに限らず、遠泳や筋トレ中、作品制作中や仕事の単純作業時などでも考え事をしながら行う機会は多々あります。しかしながら、やはり歩いたり、走ったりしているときが一番思考が整理されるように思われます。
自分自身を省みてみると、夜な夜な深夜に四方田んぼの田舎道を2時間程度ウォーキングしているのですが、イヤホンで音楽やラジオを聴きながらも、常に何かしら考え事をしています。くだらない想像や懐古的な妄想も多いのですが、ひとつのテーマから想像はあらゆる分野に派生し際限なく広がっていきます。
それゆえ、ブログのネタ自体に困ることはないのですが、脳内で完結してしまうため、整理してアウトプットする作業にはなかなか至りません。
仕事に限らず、表現としてやってみたいアイディアもたくさん浮かぶのですが、いざそこから行動に移したり形にしようとすると、必ず行き詰ってしまい、それを乗り越えるには並外れた努力や忍耐が不可欠となります。やらなきゃいけないことをやったり、与えられた仕事の中で頑張ることとは違い、別にやらなくても困らないことに対する労苦に耐えることは至難の業です。
きっと、そうやって現状に満足してしまい、歳を重ねて気付いた時にはもう手遅れというのが目に見える、それどころか、すでにその域に居ると思うと、もはや絶望の淵に佇む心地です。

解決策は行動しかないと解かってはいるものの、無為な時間を過ごしてしまい、そうしてまた、空が白み始めてきました。


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ストーリーズ

今年も熊本県立美術館で開催されたアールブリュット展を鑑賞してきました。隣で熊本県小中学生絵画展も開催されていたのもあり、多くの家族連れで大盛況のようでした。
先日、サクラマチの地下通路への階段で、これまでのポスターが展示されていたのも見ましたが、何年も継続してこうような活動をしている人が熊本にも多くいるんだなぁと思うと同時に、自分がやりたいことをやっているという嫉妬を覚えました。

アールブリュット

企画展の方はあまり興味がなかったのですが、常設と併せて安価で入場できたので、一応と思いつつ観てきました。以前も少しブログで紹介しましたが、熊本県立美術館の常設展はよく訪れるので、どうせ矢野某はじめ、あまり変わり映えしない展示だろうと思って入ったんですが、ごめんなさい、けっこうよかったです。
第一展示室は日本画の展示室ですが、今回、この作品を初めて観ました。

親子獅子図

《親子獅子図》狩野栄信・養信(19世紀)

「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」を描いたもので、親獅子を親の栄信が、子獅子を子の養信が分業で描いたそうです。なんちゅう可愛らしい獅子や。

さらに、この作品も初めて観ました。

閻魔丁図

《閻魔丁図》河鍋暁斎

(熊本県美、河鍋暁斎のこんな作品持っとったんかいな。)
先に鑑賞したアールブリュット展の方でも、デュビュッフェのリトグラフが数点展示されていたのですが、今までなんで展示してなかったの、というような良品を鑑賞することができました。ちなみに、以前も触れましたが日本画の掛け軸は自重で傷みやすいのであまり長期展示には向きません。

そして、後半の展示室にて、今回の企画展「ストーリーズ―物語る版画たち」が催されていました。
これは企画会社の企画ではなく、熊本県立美術館の企画展です。主にコレクションから西洋版画を集めた展示でした。

私がこの展示を敬遠していたというか、特に興味を抱かなかった理由が、西洋の古典版画の場合、叙事詩や宗教をテーマに扱ったものが多く、その物語や歴史を細部まで知らないので、深く作品を読み解くことができないからです。しかも、版画の経験がないので、技法に関しては、どれだけ鑑賞しても一向に詳しくならないというコンプレックスもありました。
浜口陽三さんのような可愛らしい版画は好きですし、よく目にし今回も展示されていた、ロドルフ・ブレダンの《善きサマリア人》や、デューラーの《メランコリア》は一枚で完結するので見やすいのですが、他の西洋古典版画はとんとわかりません。なので、あまり興味がないにも関わらず、キャプションをしっかり見ることになり、とても疲れてしまいます。
この気持ち解かるかなぁ、と思っていたのですが、企画をした学芸員の方がそれを解かってくれていたようです。

「概して、小さく、緻密な刻線でかたち作られるモノクロームの画面は、ややもすると華やかさに欠け、難しいと感じられるかもしれません。(中略)版画が伝えるメディアであるとするならば、他方、その醍醐味のひとつは画面に描かれたものを‘読み取る’ことにあると言えるでしょう」(熊本県立美術館学芸員・ごあいさつより抜粋)

そうなんです、この「読み取る(読み解く)」作業がハードルを高くしているんです。
多くの著名な油彩画家が版画作品も制作していますが、版画になった途端、「美術・芸術」から、「哲学・学問」へと変わってしまうように感じます。例えばルドンなどは、パステルや油画だと色彩の美しさから作品主題のイメージを感じることができるような気がしますが、版画になった途端、作家が自己の精神世界に没入し、鑑賞者は突き放されてしまいます。
タブローが「Don't think,feel.(考えるな、感じろ)」だとしたら、版画は「Think and then feel.(考えた上で感じなさい)」のようです。

しかし、今回は企画をした学芸員の方の生の声を感じることができて、面白い展示でした。他のキャプションに関しても、この規模の展示の為に作られたにしてはもったいないような良質のものでした。
学芸員の頑張り次第で美術館は面白くなれる可能性があると以前書きましたが、熊本県立美術館の展示はこれから少し楽しみになったかもしれません。


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出会いと再会

物事の移り変わりの時期を過渡期や黎明期と言いますが、それは後に振り返ってみたときに「あの時代が黎明期だった」と証明されるのであって、現在進行形の人生においては、まだ何も成していない状態であると言えます。私は何事かを成したいと思いながらも何も成せない万年過渡期の人生を貪っていますが、今が自分史の大きな黎明期になれるかどうかかもしれません。そうでありたい思っています。

これからの事、展望、夢や挑戦を語ると、まるで意識が高い人のように思われるかもしれませんが、私にその気は全くありません。ただ、自分の人生を鑑みたり顧みた上で、これから終末を考えたときに、どう生きるかが最近ほんの少しだけ見えてきているような気がします。

このブログでもしばしば「想起される記憶」について語ることがありますが、最近はこの「想起される記憶」に触れる機会が多くなり、触れるたびに過去を慈しみ、人生を総括するようになりました。自分だけが知っている過去の自分のことは慈しんであげたいと思います。

2022年7月15日のブログで、「絵画には記憶を呼び起こすことができるものもある」と書き、「いつか紹介するかも」といいながら、だいぶ時が経ってしまいました。今回はその紹介をしたいと思います。

私がまだ美術館巡りを始めたばかりの頃、当時は愛知県に住んでいたのですが、休日に名古屋ボストン美術館へ行きました。
夏の暑い日だったのを覚えています。企画展で印象派の展覧会をやっていたのですが、そこで出会ったモネの「ポプラ並木のある草原」を観た時、まるで自分がその景色の中に立っているような感覚に陥りました。自身の記憶(経験)と、絵画の持つ空気感の結合によって生じた感動による精神転移です。

ポプラ並木のある草原
《ポプラ並木のある草原》クロード・モネ

夏の暑い日、草原をそよ吹く風の心地良さ。私は誇張無しに、この絵画の前に立ち尽くし、涙が溢れてきました。まさに、そして初めて絵画の力を思い知らされました。
そして、その横には「アルジャントゥイユの雪」という作品もあったのですが、この絵画の空気感にもまた、感動しました。

アルジャントゥイユの雪
《アルジャントゥイユの雪》クロード・モネ

こちらは自分が絵画の中にいる感覚ではなく、雪の中にイーゼルを立て、無言でカンバスに向かう髭面の男モネの姿がそこに居るように感じました。
この「アルジャントゥイユの雪」とは、その後ドイツかどっかで偶然再会し、2度目に見たときは当初ほどの感動はありませんでしたが、遠い土地で久しぶりに会ったことに感慨深くなりました。

長年美術館巡りをしていると、一度会った作品に全く違う所で再開することがたまにあります。それが偶然のこともあれば、知っていて会いに行くこともあります。
みなさんはこちらの絵画をご存じでしょうか。

忘れえぬ女
《忘れえぬ女(ひと)》イワン・クラムスコイ

ロシアのトレチャコフ美術館が所蔵するクラムスコイの代表作です。原題翻訳のままだと≪見知らぬ女≫ですが、いつのころからか日本では《忘れえぬ女(ひと)》という名前が定着しました。1983年の来日の時にはすでに《忘れえぬ女》という邦題で展示されていたようです。
私は2009年に初めて対面しました。当時、島根県に住んでいたのですが、テレビで見てずっと気なっていたこの絵画が広島に来ると知り、車で広島県立美術館の展覧会へ行きました。
展示は19世紀頃の絵画が多く、時代としてはフランスでは印象派やロマン派等と同時期に当たりますが、それらとはまた違う、独特の空気を携えたロシア絵画の世界観で、初めて見るその絵画群はドストエフスキーに通ずる厳しさと寡黙さがあり、そりゃああんな暗い話も生まれるわと合点がいきました。南国育ちの私でさえ陰気なのに、これがもし雪国で生まれ育っていたらと考えると自身の闇が計り知れません。
偉大なロシアの画家として真っ先にあがるのはイリヤ・レーピンでしょうが、私はこのとき初めてレーピンの名を知りました。このような副産物的な出会いも美術館巡りの魅力だと思います。
目的の忘れえぬ女は、想像よりも1.5倍ぐらい大きな作品で、そして想像もしていなかったような、とてつもない空気感で満たされていました。期待をし過ぎると期待を下回ってがっかりすることは珍しくありませんが、忘れえぬ女は期待を悠々と超えてきました。展示室は下階からの吹き抜けをぐるりとコの字に回るような作りだったのですが、展示室を進んで吹き抜け越しにも遠くから鑑賞した光景が今でも脳内に残っています。
ちなみに、この映像記憶についても面白いので、また機会があればお話ししたいと思います。
その後、忘れえぬ女とは2019年の来日の時に渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで10年ぶりに再会しました。このときもトレチャコフ美術館展だったのでロシア絵画が豊富に展示されていたのですが、初めての時のような感動は得られませんでした。特に、忘れえぬ女に関しては、偽物じゃないかと思えるぐらい全く空気感を感じることができませんでした。美術鑑賞では、その時の気持ちや心の在り処も大事なので自分の問題なのか、それともライティングや額のガラス、室温、空気、他の鑑賞者などの外的要因、経年劣化、修復・補修の失敗かとも思ったのですが、その後ミュージアムショップをぶらぶらしている時に、年配の男性が奥様に対して「昔見た時と違って見えた」と言っているのが聞こえたので、やっぱり私はあの作品は怪しいと思っています。

そういえば、再会したときに、最初ほどの感動を覚えないというがっかり体験は、作品だけではなく人間でもあります。
18歳の時に私は三重県で仕事をしていたのですが、その時にお世話になった6歳年上の先輩がいて、とても人柄が素晴らしく、見た目や雰囲気もかっこよくて、自分も24歳になる頃にはこんな人でありたいと思って憧れていました。そして、ちょうど自分がその24歳になった時に、偶然また近県に居たので、会って食事をすることになりました。6年ぶりの再会ということで、ものすごく緊張していたのですが、実際に会ってみたら当時の輝きは全く感じられませんでした。勝手に憧れといて勝手に失望するなんて失礼な話ですが。しかし、こうありたいと願って過ごした6年間のおかげで自身の成長に好影響はあったと思います。

日本語の「ありがとう」は漢字では「有難う」と書きます。有り難いことへの感謝ということでしょうか。寺のくそ坊主のような言葉遊びは嫌いですが、言語学としての言葉の成り立ちは面白くて、このような表現がたくさんあるのは、なにも日本語だけではありません。
フランス語で「見る・会う」は「voir」といいます。そして「再び○○」というときは語頭に「re」を付けます。例えば「Renaissance(ルネッサンス)」というのは再び生まれる、再生という意味なのはよく知られています。
フランス語の「さようなら」は「Au revoir」。Auは英語でいうところのtoやatです。「Au revoir/また会う時まで」。

これからも、どんな再会があるのか。
みなさんも、よい出会いと再会を。

P.S. マッチングアプリの写真撮影も請け負っております。
何気なく友達が撮ったような、自然な雰囲気の写真を撮ります。


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記憶の糸

昨年はあまり大きな展覧会を訪れる機会はありませんでしたが、それなりに充実した鑑賞をすることができました。とくに子どもの作品展やアールブリュットは多く鑑賞できて大変満足いたしました。2024年はどんな展覧会、作品に出会えるか楽しみです。

1月1日~1月5日は雪下出麦(ゆきくだりてむぎのびる)。今冬は暖かい日が多いですが、まだまだ油断はできません。
「忙しい」という言葉を安易に使うのは好きではありませんが、12月はなかなか余裕のない日々で、大晦日は遅くまで仕事がありヘトヘトになって自転車で帰っていたのですが、その道中、記憶に触れる心地良い空気を感じることができ、師走の頑張りが報われたようでした。
<2022.7.15 五感と記憶>
記憶に触れる空気を感じた時、何時何処の記憶だったのかが知りたくて、記憶の糸を手繰ろうとするのですが、それはあっという間に消散してしまいます。儚く不意に現れ消えるものだからこそ尊く感じるのかもしれません。

今、住んでいるところはやがて3年になりますが、私は大人になってからこんなに長くひとところに住んだことがありません。最近でもたまに知らないところに行きたくなる衝動に駆られることはありますが、同じ生活の繰り返しや、(あえて言えば)普通の生活というものへの新鮮味を感じております。ルーティンや継続への憧れもあります。意識して、努力して続けるのではなく「気付けば長く続いてるもんだ」というのが嬉しくなります。
この出張撮影のホームページを作ったのが2022年。こつこつブログの記事が貯まっていくのにも小さな喜びを感じています。そんな積み重ねの中で、2023年には子ども向けの絵画コンクールを開催したり、ずっとやりたかったことをやれたことへの満足感もありました。2024年にはまたひとつ、新たなことを始めようと準備中なので、うまくいくかはわかりませんが、形になるまでなんとか頑張ろうと思います。

と言いつつ、なるべく遠い未来への希望は持たず、今できることをコツコツと。


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広島へ・後編

時系列では前編の下瀬美術館と逆なのですが、広島市現代美術館へ行ってきました。

最近まで改装していて、リニューアルしてから行くのは初めてです。ロッカーの位置やミュージアムショップの位置が変わっていたり、企画展示室の中庭がいい感じになっていた以外は館内の大きな変化はわかりませんでした。きっと改装とはそういうものでしょう。

企画はアルフレド・ジャー展をやっていたのですが、これはこれは久しぶりにかなり見ごたえのあるインスタレーションの展示でした。初めて鑑賞するインスタレーション作家の展示は当たり外れが大きいというか、全く好みではないことも多いのであまり期待はしていなかったのですが、今回は行って大正解でした。
そもそも広島を題材にインスタレーションを制作すると“原爆を取り入れればアート”みたいな安直なものになりがちなのですが、アルフレド・ジャーの作品ではそのような感情を抱くことはありませんでした。

展示内容についてつらつらと書いてみたのですが、文章で上手く伝えることができそうになかったので説明は止めておきます。

代わりにトイレの話しを少々。
美術館は当然各所のデザインにこだわっていますが、今回、トイレで面白いピクトグラムのデザインを見つけました。
ピクトグラムとはパッと見ただけでその意味することがわかる図記号を言います。電車内の優先席のマーク、オリンピックの競技のマーク、温泉のマーク等がそうです。広島現美ではトイレのマークがこのようになっていました。

広島市現代美術館トイレピクトグラム

みなさんは∩とUどちらが女性でどちらが男性か分かりますか?
私はこの“わかりにくさ”という考えが好きです。昨今はなんでもかんでも分かりやすさが求められます。WEBデザインにおいてはユーザーが快適に利用できるよう分かりやすさや操作性をデザインするというUI(User Interface)が必須です。商品等では過保護な程の注意書きがあります。これはなにか問題があったときに「弊社は注意を促してますよ」という予防線だと思うのですが、過剰さが目に余ります。今回のアルフレド・ジャーの展示ではある作品において「強風が吹きます」という注意書きがありましたが、それ以外の作品では脳裏に強烈な衝撃を受ける作品やビクッとなる心臓に悪い作品、周囲が全く見えない暗闇での展示がありましたが、それについて予め注意書きや喚起はありませんでした。私はその“注意書きをしない”という作者と美術館の勇気に賛辞を贈りたいと思いました。

名刺フロント名刺バック

↑手前味噌ですがこちらは私の撮影の仕事用の名刺です。最近の主流はホームページやSNSへのQRコードを記載しアクセスしやすくしますが、私はあえて自分で考えて検索入力させるデザインにしました。初めて作った名刺なのでデザインに粗はありますが、非ユーザビリティという点は気に入っています。

ちなみに美術館によってはスタッフの制服のデザインにもこだわっているところがあるのですが、広島現美はどうだったのでしょうか。美しい生地の白いシャツだったような気がするのですが、あれは制服なのか私服なのか違いをもっときちんと観察してくればよかったです。
広島現美のスタッフは質が高い方が多いので、私はとても好感を持っています。これまで美術館の楽しみに「壁、宗教の運営、改装中の作品、建築、展覧会の企画、収集者」等を挙げて書いてきましたが、「制服や働く人」の違いも美術館の楽しみのひとつかもしれません。

インスタレーション等の現代アートは私には理解するのが難しいことも多いですが、今回は純粋に記憶に残る良いものを鑑賞することができました。


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広島へ・前編

新幹線なので遠路遥々ではありませんが、下瀬美術館へ、行ってきましたよと。
以前ブログで触れた広島県大竹市に新しくできた下瀬美術館。
この日は天気が良くて日中は少し暑いくらいでした。

下瀬美術館

美術館の駐車場からエントランスまではアートの島や海外の田舎に建てられた現代美術館の様な雰囲気。外壁はほぼマジックミラーのステルス美術館。
1,800円というなかなか高額な鑑賞料に少し入館を躊躇いましたが、企画展、常設展、庭園を含めた料金なので妥当ではあると思います。
企画展は『四谷シモンと金子國義-あどけない誘惑』バルテュスが好きな人は好きかもしれませんが私の琴線には触れませんでした。歩きながら1分程で企画展を見終えたのですが、これも歴とした鑑賞法なので“いつか”機会があれば美術館の鑑賞法についても紹介するかもしれません。
常設は展示室が非常に面白く、立方体のコンテナのようなものがいくつも繋がっていて、それが自動ドアで区切られていました。ここでも歩きながらの鑑賞法をしたので自動ドアを抜けて展示室を移動する度にドゥクドゥクとRPGのダンジョンを進むような感覚でした。

下瀬美術館自動ドア

この展示室は可動式で位置を入れ替えて繋げることが出来るようです。改めて展示室を観察してみると確かに繋ぎ目になる部分やドアを塞いでいる箇所がありました。

下瀬美術館模型

下瀬美術館設計

ただ、設計としては初めてのものが多く大変面白くて(坂茂さん設計でした)満足いく体験だったのですが、展示内容が日本人形の展示室、ガレの展示室、香月康男の展示室、洋画ではマティス、ピサロ、シャガールなんかを一点ずつ寄せ集めている感じで、更に遠目にちらっと暗黒世界の絵を見かけたのでブラマンクかと思いましたがコレクションリストに名が見当たらないのでおそらく佐伯祐三でしょう。あまりにこの美術館(展示室)にミスマッチな作品群で展示センスが理解できませんでした。それぞれの作家が嫌いなわけではないのですが、これらの作品をこの新しくできた近代的で明るいデザインの美術館のメインラインナップとして展示するというのが私の感性とは全く相容れないものでした。
帰宅してから美術館について調べましたが、丸井産業という建築資材を取扱う会社の創業60周年を機に構想された美術館で作品は創業者のコレクション。それを二代目社長が受け継ぎ増やしていったのでコンセプト、系統、嗜好の分からないアンバランスなコレクションになっているのかもしれません。もちろん何をどのように展示しようが経営者の自由ですが。
有名な私立美術館は大企業によるものが多いのですが(出光美術館、サントリー美術館、SOMPO美術館etc...)、地方企業でも創業者のコレクションを展示するために作られている美術館はたくさんあります。
富山県にある樂翠亭美術館は私がこれまで訪れた私立美術館の中で最高峰の優れた美術館ですが、この美術館は産廃業の経営者のコレクションのようです。
以前ブログで九州内に面白い美術館を見つけたと書きましたが、それは鹿児島県出水市にある堂前栄二さんという税理士が長年かけて集めたコレクションを展示する現代写実絵画に特化した美術館です。作品の撮影が全てOKなのも珍しいのですが、作品内容に関しては様々なスーパーリアリズムの作家の作品がありながら寄せ集めという感じはなく、それぞれの作家の素晴らしい作品が多くあり、館長でもある堂前栄二さんが本当に現代写実絵画が好きな人なんだろうなぁと作品群から見受けられます。更に、鶴をテーマに作品制作を依頼して若手の作家に機会を与えているのではないかと推察される作品も数点ありました。現代写実(超写実)絵画に批判的な人も多いですが、ここは素晴らしい美術館だと思います。ただ、この美術館は下瀬美術館とは逆に作品以外の面で残念なことがあります。美術館の名称が『鶴の来る町ミュージアム』といい、おそらく大半の人が鶴の写真や剥製、鶴の生態を紹介する町立博物館を想像するのではないでしょうか。私自身がそう思って何度か素通りしていました。しかも看板の文字が行書体で<鶴の来る町ミュージアム>です。館長が鶴の飛来する出水への想いがあってこの名称にされたのだろうと思うのでもちろん経営者の自由ですが、絶対名前と看板のロゴデザインで損していると思います。ある日、写実絵画なんたらの幟が立っているのを目にし気になって調べて実情を知った次第です。

と、まぁこのようにコレクションには集めた人のセンスが表われるのでそこも面白いと言ったら面白いかもしれません。
下瀬美術館のコレクションに対しては辛辣に言いましたが、クレマチスの後悔もあるので行ってよかったです。

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下瀬美術館外観


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クレマチスの後悔

菊花開く時候の心地良さに勝るものなしとつくづく感じる今日この頃。
みなさんはこの圧倒的な心地良さを感じることができていますか。
仕事に行かなきゃとか、学校に行かなきゃとか、なにか心にモヤモヤしたことあると気持ちがそちらに割かれてしまい、本来何気なく感じる快然なことですら気付く余裕がなくなってしまいます。
私はここ数日それで貴重な時期を無駄にしてしまったのでここから取り返していく所存です。

先月末、スマホのニュースで「ヴァンジ彫刻庭園美術館、クレマチスガーデンが閉館」という美術手帖の記事が入ってきました。ヴァンジ彫刻庭園美術館というのは静岡県のクレマチスの丘にある施設です。
私はこの美術館の存在を知っていました。知っていて“いつか”行きたいと思いながら行っていませんでした。どうでもいいようなことでしたら別に“いつか”でいいんですが、やらなくて後悔するようなことを“いつか”にするのはあまり好きではありません。
賭け事などは別ですが、“後悔”とはできるのにやらなかったという愚かな感情である場合が多いように思います。やるべきことをやれば、たとえ残念な結果に至り悲しみや苦しみなどの感情は生まれたとしてもそこにあるのは後悔ではないでしょう。
大切な人に明日も会えると思うな、というのを私は“理屈で”意識するようにしています。
例えば親と離れて暮らしていたとして、実家に帰省するのは年に一回、2日間、滞在時間30時間と仮定しましょう。親が60歳だとしたら残りの寿命は20年と仮定します。30(時間)×20(年)=600(時間)。600時間とは25日間です。親と会えるのはあと25日間しかないのです。親に限らずもし大切な人がいるのなら、それを充分に理解した上で会える機会は大切にした方がいいと思います。

クレマチスの件は、閉館に至る経緯もHPで読みましたが、概要は経営難により2021年に県への無償譲渡を含む支援を要請したが結論に至らず、やむを得ず閉館するとのことでした。
詳細はわかりませんが、行政というのは本当に想像以上に閉鎖的、因習的かつ封建的なので現行の制度と多少とも合致しないことは受け入れて貰えません。なのでまずは制度を変える、もしくは作るしかありません。クレマチスのとったアンケートを拝見しましたがしっかりしたデータとして形が成されていたのでそれらを基に美術館が支援されるための新しい制度を議会を通して作るしかなかったのかなぁと無知な私は想像しました。もちろんそんなことは私が言うまでもなく美術館存続のために様々尽力されたでしょうが。
かつて、私はある御仁宅で語学の個人レッスンを受けていました。70歳代の先生で非常に博識で聡明、美術にも造詣が深く、語学学習に挫折しかけていた私は先生と美術や文化について話す時間がとても好きでした。
先生曰く「フランス人というのは自国の言葉や文化に大変誇りを持っている。国もそれを大切にしている。芸術というのは必ずしも必要なものではないので日本において芸術、文化というのは真っ先に予算を切られる。」
先生は美術館の運営に関わる活動もしておられましたが、客観的な物事の捉え方が非常に尊敬でき、おこがましくも私は共感を覚えていました。
私は美術館が好きですが、莫大な赤字続きの公立美術館があれば必ずしも存続すべきとは思いません。美術に興味がない人からしたら税金の無駄遣いでしかないからです。ただ自分が好きなものだからという理由で声高に守れというのは違います。まずは経営として成り立つよう最大限努力することから始めるべきです。ある問題において自己の嗜好による主義主張から一面性しか見ずに批判や活動する人間の言葉に重さはありません。
ヴァンジ彫刻庭園美術館、クレマチスガーデンが閉館するという出来事は、それを惜しむ人々の行動が、惜しむに足る行動を起こしたかが重要で、私自身はこの件を早期に知っていた場合惜しむに足る行動を起こしただろうかと考えさせられました。

日常は選択の連続。岐路と呼べないまでも行動を選択する場合は後悔しない方を選ぶ生き方をしたいです。

というわけで、次回「行ってきました、下瀬美術館☆」
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ステルスを露わにするコスモス


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秋の開花と推し活

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下瀬美術館

朝晩は徐々に過ごしやすくなり心地良い気候に幸せを感じております。七十二候では鶺鴒鳴(せきれいなく)。セキレイとは鳥のことでしょうか。きっと鳥のことでしょう。
前回のブログでは『展覧会について』を書きましたが、普段文章を書くときに注意している事のひとつにリズムがあります。学が無いので正しい文法や活用、難しい言葉を使えないのはしょうがない分、読み心地の悪くないリズムは意識しているのですが、前回のブログは伝えたいことが上手くまとまっていなかったために読むに堪えない文章構成になってしまいました。それでも心の中の想いを文章としてアウトプットすることで自分の中の考えや思想を整理することができるのでこれからもぼちぼち続けていきます。

先日、スマホをいじっているとオススメの美術館を紹介する記事が表示されたのでなんとなく見ていたらとても気になる美術館がありました。
広島県大竹市にある“下瀬美術館”です。
最近オープンした美術館のようで、おそらく美術手帖や日曜美術館のアートシーンでは紹介されていると思いますが近頃美術情報をチェックしていないので知りませんでした。
実は数年前に広島に住んでいる時の職場が大竹市で、この美術館のある公園や近くのお店にも頻繁に行っていました。公園に関してはホームレス時代に駐車場で車中泊をしていたこともあります。そんな思い出深い地にいつの間にか美術館ができていたのが驚きで、近々絶対行こうと思ったので前情報を仕入れない為にすぐ詳細ページを閉じました。ちらっと見てしまった画像の印象では屋外彫刻やインスタレーションなんかの現代アートがあるタイプの美術館でせとうち美術館ネットワークにマッチする感じかなあという印象でしたが、真偽はわかりません。おそらく建築も誰かしら著名な人だろうとは思いますが行ってからの楽しみにしています。
瀬戸内海と中国山地に挟まれた広島の夏はものすごく蒸し暑い印象ですが、これからどんどん涼しくなるので久々に訪ねる日が楽しみです。


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展覧会とは

近年は九州内からあまり出ないこともあり美術館へ行く機会も減りそれに比例して関心も薄くなったのですが、それでも一応行けそうな範囲で展覧会情報はチェックしています。それで最近ちょっと不思議なことに気づきました。
今回は美術館の展覧会に関するお話し。

みなさんは『魔法の美術館展』というのをご存じですか。体験型のメディア(デジタル)アートの展覧会で子供も楽しめるようになっていて、数年前から全国各地を巡回しています。私は数年前に長崎県美術館で開催されているときに行きました。その『魔法の美術館展』がこの夏7月15日~8月27日まで佐賀県立美術館で開催されていたはずなのですが、会期中に全くと言っていいほど佐賀県立美術館のホームページや公式ツイッターでPRされていませんでした(年間スケジュールに記載されている程度)。
通常、展覧会前や展覧会中はたくさん告知や広報するものなのですが、なんでだろうと思いちょっと調べてみました。
『魔法の美術館展』はステップ・イーストという会社が企画しているようですが、この会社のホームページを見ても大した情報は載っていませんでした。素晴らしい展覧会に出会ったらその企画をした人物や会社が気になるのですが普通に美術鑑賞をしていても企画会社について知ることはほとんどありません。あえて言えばチームラボぐらいでしょうか。
そもそも“展覧会”というのは美術館が自身で企画するものもありますが、多くは別の会社が企画したものを美術館で展示するということが多いように思われます。その際、主催者が美術館であればもちろん展覧会をPRするでしょうが、件の佐賀県美の『魔法の美術館展』の場合、主催は佐賀新聞社だったので、佐賀県美側はPRすることはなかったのだと思われます。が、それにしても本来、美術館と新聞社なんてものはずぶずぶのはずなのですがツイッターレベルでも全く触れないというのが大変違和感があり何か大人の事情があるのかなぁという私の下衆の勘ぐりを生みました。
展覧会には企画会社、美術館、主催、協賛、後援などが関わりますが、その関係値や相関図は展覧会によって変わってくるので複雑でなかなか知ることができません。

<A展という企画巡回展があった場合>

■企画会社・・・どこに巡回しようがここが企画というのは不変。各地の主催者(美術館等)と契約。キュレーターやコーディネーター、ディレクターなどが存在し展覧会を作るために数年前から企画を始める。現在放送中の『18/40~ふたりなら夢も恋も~』で深田恭子や福原遥が働くのがアート系の企画会社なのかもしれません。ドラマを見ていないので詳しい人は教えてください。
■美術館・・・主催者としてA展を展示 or 主催者に会場を貸し出すのみ。展覧会を自身で企画することも。
■主催者・・・美術館、新聞社、テレビ局、文化庁、都道府県、市町村教育委員会などなど。A展の企画会社と契約。
■協賛・・・新聞社、テレビ局、航空会社、企業などなど。
■後援・・・企業、行政などなど。例えばフランスの美術館の展覧会の際は在日フランス大使館やエールフランス航空、アンスティチュフランセなどが後援することも多い。

企画展があったら大抵展示室に入ってすぐ(直前)に主催者挨拶のパネルがあります。展覧会の図録には主催者、協賛、後援が最初の方に記載されています。それらは結構目に入るので意識することはありますが、企画会社は本当に謎です。

ところで企画展といっても様々なジャンルがあります。近年はとくに絵本や漫画、アニメの企画巡回展が多いように感じますが、私は常々この絵本や漫画やアニメの展覧会(以降あえてサブカル展と表記します)に頼りすぎることに懐疑的です。それは収集、契約、運搬、展示、管理といったあらゆる作業が圧倒的に易しいと思われるからです。サブカル展の場合、原画や関連作品はほとんど出版社か作者が所有していると想像できます。収集先が一本化しているほど交渉、契約などの作業もまとめてできるでしょう(詳しく調べていませんがもしかしたらそもそも出版社自体が企画することもあるかもしれません)。そして美術館の展示作品と違い普段は眠っているものなので特に展覧会に出品されて困ることもなさそうです。作品の多くは一人で持てる程度の大きさで美術作品と比べると材質上繊細さが無いので管理、運搬においてキュレーターやコーディネーター、修復士、専門運搬業者等の人間が西洋古典絵画や仏像をクーリエ(※)する時のように胃をキリキリさせることもないでしょう。大きいものといえば展覧会用に制作されるパネルぐらいかもしれません。それでいて展示されるのは当然知名度も人気もある作品なので普段美術館と縁遠い人達も集客でき、更にグッズも売れるので経営としては金の生る木です。
もちろんこれによって美術館も鑑賞する客も企画会社も作者も版権元の出版社もみんなが得する事なので全く悪いことはありません。しかし、それらが大義を得てしまうと、とてつもない苦労をして開催される展覧会が衰退し頑張って困難な企画を作り上げても結局楽なサブカル展の方が集客(利益)を獲てしまうという空虚さが生まれないか複雑な気持ちになります。
展覧会を訪れるとその作品群の素晴らしさに圧倒され、よくこれだけの作品を集めたなぁと驚嘆することが稀にあります。逆にとりあえず数だけ集められたように感じる展示にがっかりすることもあります。
美術館の展示に限ったことではありませんが、表面的なものを装っても中身が無かったり有名無実なものには周りも気付くものです。偏屈でHSPの私は薄っぺらいものへの嫌悪感がすごくあるので特に強く感じます。普段なかなか日の目を見ることのない展覧会を作るという裏方の仕事。努力が報われるとは限りませんし努力だけのものが報われるべきとも思いませんが、本当に素晴らしい展覧会に出会った時には心中喝采を贈っております。
鑑賞者が美術館や展覧会への感想を伝える方法はSNSへのコメントやアンケート用紙記入などがあります。私は鑑賞中や鑑賞後のちょうどいいタイミングちょうどいい場所にアンケート用紙があればマナーとしてなるべく書くようにしていますが、なかなかそう都合よくは置いてありません。昔、広島県立美術館を訪れた際にアンケートを記入したらクリアファイルを貰えるというのがあり、クリアファイル好きな私はもちろん戴いてきました。クリアファイルやポストカード、缶バッチなどは安価なので配りやすいとは思うのですが、美術館でこれらのものが配られた経験はほとんどありません。私の経験上、海外の美術館の方がプレゼントやご自由にお取りくださいが多いように感じます。ちなみに他に感想の伝え方としては鑑賞者ノートというのが置いてあることもあります。なんでも自由に書き込めるのですが、私はこの“鑑賞者ノート”というものが大好きです。これについてはまた別の機会があれば書こうと思います。
サブカル展に頼りすぎるのはいかがなものかという話から脱線しましたが、私はサブカル展自体を否定しているわけではありません。ドラえもん、ジブリ、プーさん、宮内達也など、自分の推しの作品の展覧会はどれも行って良かったし、行ってみたかったものもたくさんあります。
これからも美術館各々がどんな展覧会の開催を選んでいくのかを楽しみに注視していきたいと思います。

※クーリエ・・・美術品の輸送、それに帯同する者。元々は外交文書を運ぶ任をそう呼んだと思います。春江一也の代表作『プラハの春』は主人公の外交官が外交文書をクーリエする1960年代のチェコを舞台にした物語でチェコの近代史に触れるにはオススメの一冊です。


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MONEY

このまえ年明けたかと思えばもう半年以上経ちました。この夏も暑うございましたがもう少しの辛抱です。

今年は各地でお祭りが開催され、熊本でも火の国まつりや山鹿灯籠まつりなど色んなお祭りがあり是非写真を撮りに行きたいと思っていましたがぴったり仕事(本業の労働)が入っていたので泣く泣く断念でした。生き急ぐ性格の私は“来年こそは”“今度こそは”という考えには至らずただただ落胆しております。
お金(生活)の為にしている仕事を理由に自分の中でより重要度の高い何かを犠牲にするたびに生き方を考えさせられます。“家族の為に働く事”と“家族との時間の亡失”は多くの社会人が抱えるジレンマでしょう。家族というものはわかりませんが私は自分自身に対してその気持ちが強くあります。現代は多様な働き方、収入の得方があるので努力や行動次第で抜け出すことができる可能性はありますが言うは易しです。
矢沢の永ちゃんが言ってました。
「僕は金が欲しいんですよ。札って限度がある。朝昼晩3食ていうのは決まってる。それでも金が欲しいと矢沢が言ってる。本人もそう思ってる。それはいわゆる安心感が欲しい。底辺さえベースィックなものを持っていれば自分の魂を売ることもない。だから底辺を固めないといけない。それで僕は金が欲しいと言ってる。金がないと受けたくない仕事も受けないといけない。信念を曲げないといけないこともある。そういうアーティストはあまりに自分が可哀そうだ。だから僕は一日も早く金が欲しいと思った。自分をまとめる為に。底辺を作る為に。」
さすが矢沢です。
青年期からずっとお金よりもどう生きるかが重要で最低限のお金さえあればいいと漠然と思い、汚い収入を蔑み労働による純潔なお金にこだわってきましたが間違いだったようです。僕は金が欲しいんですよ。自分の生き方を貫くには“まず金”が必要なんです。だから金を稼ぐと坂本は言ってる。本人もそう思ってる。

money

永ちゃんと同じ時代を亘ってきた浜省さんはこう歌っています。

Money,Money makes her crazy
Money,Money changes everything
いつかあいつの足元にBIG MONEY叩きつけてやる

( MONEY / 浜田省吾 )

これが欲しかったんだろと
いつか社会に叩きつけてやるBIG MONEY


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梅雨の成果物

「犬も歩けば棒に当たる」という諺界筆頭の諺がありますが「余計な事するとろくなことない」というネガティブな意味と「行動すると良い事あるかもよ」というポジティブな意味の全く違う2つの解釈があるそうです。私は「得意な事でも失敗することあるさ」という謎の3つ目の説を今日まで信じていました。
枕が思い浮かばなくてそれっぽいイントロを書いただけなのでどうでもいいですが。

昨年から構想していた新企画が完成したので、とりあえずそちらの紹介をいたします。

↓ タップでホームページへ ↓

こども絵画発見

子供向けの絵画コンクールです。WEBで応募できます。
企画当初は凡常な郵送での応募を考えていたのですが、現実的に個人では収集業務が難しく、さらに大前提として“応募された作品は子供の元へ返るべき”というのがあったので、熟考の末にWEBでの応募のみとしました。
Twitterと公式LINEから応募できます。Instagramは正攻法だと画像の保存ができないので除外しました。
子供向けの絵画コンクールをやろうと思うに至ったきっかけや経緯等は向こうのホームページで後々語ることがあるかもしれません。

ポピー


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ローランド様

前回の投稿からおよそ18候過ぎて紅花栄(べにばなさかう)。先のブログで結びに余計なことを発してしまったが為に期間が空いてしまいました。
マイペースにやるという当初の考えから外れ義務化するのは良くなかったです。新企画はとりあえず一進一退ぼちぼち進めていますが、いつかできたら発表します。できなかったらしません。行雲流水。Let it be。ケセラセラ。

近頃は仕事でもプライベートでもワイシャツを着ることが多いのですが、やっぱりワイシャツのようなものはすぐシワができます。以前はあまり気にしなかったのですが、たまにアイロンを掛けるようになるとシワのまま着ているのが恥ずかしく感じ、渋々アイロンを掛けているうちに気付くとアイロン掛けが好きになっていました。
ぼけ~っとアイロンを掛けていると、同じようなシャツでも縫い方に違いがあったり白いリネンシャツの糸の濃淡が面白かったり、普通に着ている時にはあまり気付かない発見があります。考え事をしたり、何も考えずにやっている時間はほんのり心地良いものです。
布質や洗濯後の状態にもよりますが1枚あたり20分ほど掛けるので2、3枚もやればあっという間に1時間ぐらい経ちます。
時給(自分の1時間当たりの時間の価値を)1,000円だとすればこれを5回もやれば5,000円です。その分ノーアイロン加工のシャツを買ったりクリーニングに出して浮いた時間を有効に使った方が合理的です。ローランド様やホリエモン、キンコン西野さんやひろゆきからしたら非合理的、非生産的で無駄に思えるでしょうが、今のところアイロン掛けは好きで続けています。

ベランダとスタンドカラーシャツと風


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ミモザと私

こんにちは、あるいはこんばんは。
突然ですがみなさん花は好きですか。春はお出掛けの楽しみの一つに花を加える人も多いのではないでしょうか。
花は香りや柄も豊富なので、化粧品、アロマ、芳香剤、食器、衣類、パッケージデザインなどなど、普段意識している以上に身近に溢れています。
私は雑貨屋さんをぶらぶらするのが好きなんですが、一昨秋頃からどこの雑貨屋さんやコスメショップでもキンモクセイの香りのコーナーが急激に増えました。キンモクセイの香りの製品に関して私は否定的なのですが、しかし、やはり花や花関連のグッズというのは心癒され、とてもいいものです。今の季節はミモザのグッズが多く、爽やかな黄色に目が惹かれ、可愛らしいお皿やテーブルウェアは見ているだけで気持ちが明るくなります。
近所に『ネコニハナタバ』という素敵なドライフラワーのお店があり、お店の方もとても感じのいい人が多いので大好きなんですが、今ミモザをたくさん入荷しているという情報があり、さっそく今度の休みに行きたいなぁと思っています。最近色んな所に出店されているのでみなさんも機会があれば是非伺ってみてください。

ミモザ

今回の本題は花とは関係なく、実はずっと興味があった事を、昨年から具体的に進める方向性が決まり、今年2023年の1月中には発表しようと思っていたのですが、WEBサイトの制作が思うように進まず(というか、上手くいかない部分を乗り越えるバイタリティに欠け)ちょっと放置気味で、これじゃあダメだと思い、“公言することで逃げ道をなくす”手法を取らせてもらいとう存じます。

といわけで
<2023年3月末、新企画スタート>


の予定です。


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日常

東風解凍(はるかぜこおりをとく)。いつの間にやらもう2月。また今年も8月頃になったら「このまえ年明けたかと思えばもう半年以上経った。」と薄いことを口にする自分が想像できます。

1月はあっという間ではありましたが、さっそく素敵な展示に2つ出会うことが出来ました。
2つとも児童絵画コンクールの展示で、うちひとつは宇城市不知火美術館での展示でした。
不知火美術館は小さな美術館ですが支援学校の作品展をしたりワークショップや子ども向けのプログラムを催したりと、地域に根差した様々なプログラムを精力的に開催しているとても素晴らしい美術館です。
併設される図書館と共に昨年リニューアルオープンし、図書館の方はスタバが入って都会の図書館のようになっています。
工事中は「こんなとこにスタバなんか作って人来るんかいな」と思っていたのですが、できてしまえば今までこの人たちはどこにいたの?ってぐらい日々多くの人で賑わっています。どうやら私には先見の明が無いようです。
児童の展示を見た後、図書館の方で軽く立ち読みをしているときにふと気づいたのですが、一部の本に「貸出期限票」なるものがついていました。全ての本ではないようです。
私が子どもの頃は図書室で本を借りるとき、紙の図書カードに日付のスタンプを押印する貸出しスタイルだったのですが今の小学校でもそうでしょうか。
現代の図書館はプラスチックのカードでバーコードを読み取るタイプのものが通常で、本をテーブルの上に置くだけで自動的に読み取る機械も多くなってきています。なので私はこの“紙の図書カード”の存在をすっかり忘れていました。忘れていたというより、記憶には残っていてもとくに思い出すことはなかったという表現の方が近いです。
あらためて“紙の図書カード”というものを想ってみれば、『耳をすませば』でも雫と聖司の出会いのきっかけは紙の図書カードではありませんか。映画を見ているときに少なからず紙の図書カードの存在を意識はしていたかもしれませんが、そこから実体験の記憶に結び付けるまでには至りませんでした。
不知火図書館がこの「貸出期限票」をどういう経緯で採用しているのかはわかりませんが、ノスタルジックな仕掛けで意図的にやっているのだとしたら確実にここに好意的被験者がひとり誕生しました。

平凡な過ごし方を心地良いと感じる日は決してありふれた日常ではなく、天候や自然・他者等からの外的要因と自身の気持ち・体調等の内的要因から生み出される特別な日で、その非日常はノスタルジーで過去と繋がり、そして「久しぶりに耳をすませばでも観ようかな」という未来に繋がりました。
今日はとてもいい日でした。

図書カード

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愛する県立美術館の世界

「いやはや寒くなってきましたねぇ」に「早いもので今年も残すところあと数日です」と常套句を付け加えます。

ミュージアム界隈での今年のビッグニュースといえば、今春オープンした≪大阪中之島美術館≫は外せないでしょう。
田舎に住んでいると必然的に展覧会へ行く機会も減り、感心も薄くなって目まぐるしく変化する美術業界の情報にも疎くなりますが、さすがに新しい美術館の開館というのは胸が高鳴りました。
美術業界に限らず、音楽でもスポーツでも経営でも料理でも、都会やその道の最も盛んな地域に身を置き常に身近に感じる環境というのは、特に若いうちは重要だと思います。
インターネットや様々なメディアの発達・普及により、どんなところにいてもほぼリアルタイムで情報は手に入るようになったとはいえ、やはり肌で感じる経験や体感というのは違うものです。
あの福山雅治さんは18歳の時に仕事を辞めてミュージシャンを志し、長崎から夜行列車で上京しました。その時の心境は「この街にいても選択肢がなかった」のだそうです。現在は当時と環境が異なるので、長崎にいてもやりたいことができるという“選択肢を増やす”ことが重要だと、地元に貢献する活動もされています。しかし、やはり広い世界を知った上での環境の選択というのが理想だと個人的には思います。

東京のように常に足が回らないほど展覧会で溢れていることはありませんが、ここ九州でも素晴らしい美術館はあります。
みなさんは美術館へ行こうと思うのはどんなときですか。
「観たい展覧会がある」「観光の一環で」「デートの流れで」「ひとりで時間を過ごすとき」など様々な理由があると思います。
私の場合、もちろん上記の理由で行くこともありますが、初めての公立美術館へ行くときには常設展を楽しみに行くことが多いです。
常設展とはその美術館が所蔵する作品の展示で所蔵作品展とも呼ばれ、企画展・特別展とは別に展示されていることが多いです。(所蔵作品展を企画展として開催することもあります。)
市立・県立などの公立美術館の多くはほぼ年間を通して常設展示を設けています。もちろん国立もそうですが、九州には国立博物館しかないと思うので今回紹介するのは省きます。

私は“県立(市立)美術館の常設展”というのが大好きです。
県立や都会の市立美術館クラスとなればそれなりの作品を有していることが期待できるので、「ここはだれの作品持ってるかなぁ・・・」と、なるべく前情報を入れずに行きます。

九州でしたら“福岡市美術館”が圧倒的かなぁという個人的な意見です。福岡は県立美術館もありますが、市美術館の方が企画・常設ともに充実している印象です。ちなみに福岡県立美術館はもうじき大規模改修をするみたいなので、お近くの方はその前に一度訪れてみるのもいいかと思います。
“大分県立美術館”は県立美術館としては全国的にも新しく、人気の企画展を頻繁に開催しています。他の公立美術館同様、常設は地元所縁の作家の作品を多数有しています。大分は竹工芸が盛んで、生野祥雲斎の竹工芸による曲線の美しさや高山辰雄の≪食べる≫は7年程経った今でも記憶に残っています。美術館の楽しみのひとつに“建築”もありますが、展示室の入り口が自動ドアだったり展示室の床が石のような材質だったのも非常に珍しく建築としても楽しめると思います。県立美術館の誕生により影を潜めていますが≪大分市美術館≫も素敵な美術館で、私はこちらの方が親しみがあります。
鹿児島だと“霧島アートの森”が全国的に有名ですが、私は“鹿児島市立美術館”や“長島美術館”が好きです。鹿児島市立美術館の所蔵はフォートリエやデュビュッフェ、フォンタナを有しているところに大変センスを感じます。
隈研吾さんの設計でも有名な“長崎県美術館”の常設はスペイン所縁の作品に傾倒しています。(歴史的土地柄、所蔵するならポルトガルではないのかなあと思いますが地方が同じくくりなのでしょうか。歴史や地理に疎いのでわかりません。)ダリ、ミロ、ピカソあたりがメインだと感じますが何度も行くと新鮮味に欠けるので、数年前に企画展をしたアントニオ・ロペスや現代のスペインの作家の作品をコレクションに加えてくれたらまた楽しみが増えるので期待しています。
ちなみに〇〇県立美術館、〇〇県美術館、〇〇市立美術館、〇〇市美術館など、“立”が付く美術館とそうでない美術館がありますが、その違いは行政が運営しているか、行政から運営を委託された財団法人などが運営しているかの違いかと思っていたのですが、とくにそうではなく福岡市美術館などは立が付かないけど運営は福岡市(教育委員会)のようです。とてもややこしいです。
“熊本県立美術館”の洋画の常設展示は19世紀後半から20世紀半ばのフランス絵画が多い印象です。というより、いつ行ってもほとんど変わらないラインナップです。ネームバリュのある所蔵作品は限られているので、とりあえずそれらを優先して展示することで恒常的な展示になってしまっているように感じます。多くの美術館のホームページには収蔵品データベースへのリンクというのがあり、熊本県美のそれを見ると知らない作家でも面白そうな作品をちょこちょこ持っているようなのでそういうものも展示してくれたら嬉しいです。
そして、私が九州で最も信頼している美術館が“佐賀県立美術館”です。常設ではありませんが中島清展、ナント美術館展、超写実展、アールブリュット展など多岐にわたり素晴らしい企画を連発しているので、なかなか遠方なのですが気づけば何度も足を運んでいます。私はどこの美術館の学芸員の方ともほとんどお話したことは無いんですが、展覧会内容や企画・イベント、ちょっとした広報物や張り紙、キャプション等を見ていると学芸員の頑張りやユニークさを感じることがよくあります。有名な作家の作品を購入する予算がなくても努力や工夫次第で美術館はおもしろくなれる可能性が大いにあるので、そういう頑張っている美術館は応援したくなります。
“宮崎県立美術館”の所蔵は、私が昔訪れたときは瑛久ばかりだった印象です。主な収蔵にデ・キリコやマグリットを挙げていたり、企画展の内容をみる限りシュルレアリスムや抽象のようなジャンルが好きなように感じます。そういえば今年はホキ美術館展を開催していたので、珍しく人気の展覧会をやってるなあと思いました。宮崎県の美術館全体に対してあまり活発ではない印象ですが、障がい者芸術文化活動の取り組みには注視するに足る可能性を感じます。

美術館の良し悪しは訪れたタイミングにもよるので当たり外れは各々ありますが、それでもやはり愛して止まない県立美術館の世界。
もういくつ訪ねことができるかな。

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タイトルで壁というと、目標に向かうときに立ちはだかる抽象的な壁を思い浮かべるかもしれませんが、今回は単純に物質としての壁の話です。(写真に関係のないことも書くことにしました)

正確には美術館の展示壁。みなさんは作品が展示されている壁がどのようなものだったか覚えていますか。覚えていないとしたら特に違和感を感じずに作品を鑑賞できているので壁としては成功です。
しかし、展示室の壁というのもなかなか面白いもので、ちゃんと考えて決められているので各美術館や展覧会で個性があります。多くは白やオフホワイトの様な目に優しい色でしょう。展覧会によっては花柄などの柄物、ダーク系もあります。メインや注目して欲しい作品には赤系が使われることも多いです。
私が初めて壁を意識してしまったのは紫の壁でした。

今から10年以上前ですが、愛知県美術館がフェルナン・レジェの作品を新たに購入し展示するということで観に行きました。新コレクションなので目玉として紹介するためにその作品用の展示壁が設置されていて、その壁が強烈なインパクトの紫色の壁だったのです。
当時はなんとも下品に感じたのですが、おそらく何色も試したうえでそれが一番適していると決定されたのでしょう。確かに印象には残りました。

次に壁を意識したのはクリムト作『接吻』の壁です。
『接吻』はオーストリア・ウィーンのベルヴェデーレ宮殿絵画館にあり門外不出とされています。あの『モナリザ』でさえ一度来日していることを考えると、どれだけ国の至宝として大切にされているか窺えるでしょう。
その壁が真っ赤でした。いえ、色はまだ許容できるのですが、展示室中央付近に設置されている接吻専用壁なので両脇は人が通る形になります。なんとも目にうるさく作品と対話など至難の業。その上、観ている背中側の壁にはこれまた代表作の『ユディットⅠ』などが展示されていました。以前、熊本城の城壁に熊本城の画像と漢字縦書きで“熊本城”とライトで映し出されていましたが、それに匹敵する絶望的センス。
その後の鑑賞は気もそぞろ。宮殿内を歩きながら自分なりにどんな展示方法だったら良かっただろうかと考えましたが、せっかく宮殿なのでルーブル美術館のニケ像の様に中央階段を昇った先に見上げる形、もしくはゲストを招いてディナーをする豪華なダイニングルームにあればあの荘厳な絵画にピッタリだったかなぁという結論に至りました。
しかしあくまで妄想の域。私はあの赤い壁の展示センスと自分の感性に大きな壁を感じました。

みなさんも展示室の壁を気にしてみたら面白い発見があるかもしれません。


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美術館の撮影事情

前回の投稿からすっかり季節が変わり秋らしい涼しさとなりました。
七十二候では『雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)』。
これから大好きな気候が続きます。

秋は≪芸術の秋≫とよくいわれますが、個人的には作品鑑賞よりも美術館巡りの一環で散歩やドライブをするのにとても心地良い季節です。
他の多くの県立美術館同様、熊本県立美術館も素晴らしい立地にありますが、今月初旬に閉幕を迎えた『美の旅 西洋美術の400年珠玉の東京富士美術館コレクション』展はご覧になりましたか。
私が行ったときはちょうど3万人目の来場者の式典が行われていました。過去の展覧会来館者数のデータは見つかりませんでしたが3万人というのは熊本県立美術館としては快挙ではないでしょうか。
昔、福岡の印象派展で見たモネの作品がモネの中でも秀作でそれが東京富士美術館所蔵だったので今回他にどんな作品を持っているんだろうと期待していたのですが、個人的には新しい発見や面白い作品は見つからず残念でした。しかし熊本であのレベルの西洋絵画作品群、とくに古典を見る機会は少ないので美術館としては価値のある展覧会になったろうと察します。
この展覧会は東京富士美術館の所蔵作品展で、美術館が施設工事により長期休館するにあたり企画されている巡回展です。
美術館の改修工事は数年に及ぶことが常なため全国各地で頻繁にこれがあり、休館中の作品たちの行方というのも面白いものです。

東京富士美術館というのは日本の美術館の中では有名な私立美術館で、運営しているのは創価学会(の関連法人)です。
西洋美術史と宗教というのは切っても切り離せませんが、日本において“美術館”と宗教の関わりというのも意外と多く、あらゆる信仰としての宗教が嫌いな私でもなかなか面白いものがあります。
多くの方が教科書などで目にしたことがあるでしょう尾形光琳作≪紅白梅図屏風≫。これは静岡の“MOA美術館”という有名な美術館が所蔵していますが、この美術館は世界救世教の教祖岡田茂吉のコレクションです。MOAというと通常美術業界ではMuseum Of Art(美術館)ですが、件の美術館はMokichi Okada Associationの略です。MOA美術館は光琳以外にも重文を多数所蔵している名美術館です。余談ですが、かつてここのスタッフだった方に聞いたのですが働いているのは別に信者ではないそうです。
観光で広島の宮島・厳島神社を訪れた人は対岸に巨大な建造物があるのに気づいたのではないでしょうか。あれは平等大慧会という宗教法人の運営する“海の見える杜美術館”です。遠目に怪しげですが、間近で見てもなかなか怪しげです。しかし展覧会の際は日曜美術館のアートシーンで紹介されるなど業界での市民権は得ているようです。他の美術館との関係、企画や広告を見る限り展示内容も遜色なくしっかりしているだろうと思います。
10年程前に運慶作の仏像がクリスティーズのオークションに出品されたのを都内のなんとかという宗教法人が10数億円で落札したことも当時大きなニュースとなりました。
老若男女に大人気、若冲・応挙・等伯を始めとする多くの日本美術作品を有するのは相国寺承天閣美術館。日本人に馴染みのある仏教の施設で京都にあるということもあり訪れても特に違和感は抱かないでしょうが宗教の運営ということに違いはないでしょう。若冲に関しては作者由来、縁もあるので他の新興宗教と同義にされるのは心外でしょうが。

宗教との関わりだけでなく、美術館というものは作品鑑賞以外にも面白い背景がたくさんあります。話が大分逸れましたが、今回はタイトルの通り『美術館の撮影事情』です。(一応カメラマンとしてのホームページなので毎回写真に関係のあることを書くようにしてます、無理矢理)

元来、日本の美術館は撮影禁止の施設が多いです。理由としては
1、作品保護のため
2、著作権保護のため
3、所有する財産権の行使
4、他の鑑賞者への配慮
等が挙げられるかと思います。あくまで私の経験・体感によるものなので悪しからず。

1、『作品保護のため』というのはカメラなどの荷物をぶつけるのを防ぐというのもありますが、よく目にする注意書きはフラッシュに関してです。堅牢な油画に比べて日本画はとても繊細で、湿度や照明には特に配慮が必要です。その中でフラッシュは作品を傷めるといわれています。これに関しては都市伝説のようなものでフラッシュで作品が傷むとは私は思いません。しかし掛け軸などは数か月展示していると自重で伸びるなどデリケートであることは間違いないです。
2、『著作権保護のため』これはひとつ大きな理由だと思います。「ヨーロッパの美術館は撮影OKなのに日本はダメだわ、遅れてる」と無知な海外かぶれに言われることがありますが、それは間違っています。そもそも背景が全然違うのです。例を挙げるときに極端なもの持ち出すのはあまり適しませんが、あえてルーブル美術館を例に取りましょう。ルーブルはかなり独立性があるとはいえ国立の美術館です。古代の出土品や紀元前の彫刻から近代の絵画まで数万点を有しています。大多数が作者の死後100年以上経っています。そして所有は美術館。その“所蔵作品”の展示が主です。あえて大雑把に言ってしまえば著作権を気にする必要がないのです。対する日本の美術館はどうでしょう。日本にも千年以上前の作品や数百年以上前の作品は数多くありますが、美術館自身が所蔵するそれだけの作品で集客できる美術館はほとんどありません。多くの美術館は他美術館や個人(作者本人、作者遺族、コレクター)や管理財団から借り受けて構成する“企画展”で集客を得ています。近年は企画展の企画の一環で『この作品は撮影OK!』『#〇〇を付けてSNSでアップしてね』のゾーンを設けることも多くなりましたが、基本的に著作権(財産権)は開催される美術館に無いため撮影NGとなっています。ヨーロッパと日本の美術館では企画展と常設展の比重が違います。これは中央だけでなく地方においてもおそらくそうです。さらに所蔵する作品が貸与・管理委託の場合でも、貸与する側の国民の意識・美術品に対する価値観・美術館との距離感に違いがあり、「受け継がれる芸術作品は自身の財産ではなく万人のもので広く公開されて然るべきだ」という考え方が多い文化的国民性の違いもあるでしょう。そういう意味では確かに日本は後進的かもしれません。
では常設展(所蔵作品)の方は問題ないだろうというと次の理由で撮影禁止となります。
3、「所有する財産権の行使」。権利という意味では著作権と似ていますが、この場合は美術館があえてそうしている事情です。常設のみ撮影OKとしている美術館もありますが、そうでない場合、自館所蔵なので撮影OKにできるにも関わらず“作品自体の価値を上げる(下げない)”、“出版刊行物の価値を守る”と思われる理由で撮影を禁止していることがあります。一応、作者や作者遺族の意向、作者の死後70年経過による著作権の有無も考慮すべきかもしれませんが、作品を所蔵し(細かくいえば管理委託、貸与もありますが)展示している時点で撮影程度の可否は所有者に一任されるはずです。私立美術館でしたら当然経営者の自由ですし、仮に私が私立美術館を経営するとしても撮影禁止にします。しかし、公立の美術館は、例えば現代のSNS事情を鑑みれば広く公開することによるメリットが大きい場合があるにも関わらず「美術館は昔からそういうものだから」と因習的なことが撮影禁止の理由でしたら時代にそぐわないように思います。
4、『他の鑑賞者への配慮』というのは語るに及ばないでしょう。私は撮影者を邪魔だと感じる機会は今のところありませんが。

撮影禁止の明瞭明確な理由がヴェールに包まれているので、撮影禁止であることに批判的とも取れる形でまとまりなく述べましたが、そもそも私は展示室で絵画や彫刻を撮影する意義をあまり感じません。先に述べた熊本県立美術館『西洋美術の400年』展では、小さな子を抱いた若い夫婦が作品の両脇に立って写真を撮ってもらっている光景を目にし「(こういう形だったらいいなぁ)」と思いましたが、大多数は作品をパシャパシャ撮るだけなので「(それ後々見返すことあるのかなぁ)」と疑問に感じます。直島にあるような屋外型アートやチームラボのような体験型アート(近頃は没入型アートと言うみたいです)でしたら鑑賞者も入り込んで撮ることで作品が無限に変化し、より昇華され、なにより素敵な写真が撮れるので賛成です。

実は最近九州内で珍しいジャンルの私立美術館を発見し、そこが作品の撮影全てOKでそれも珍しかったのでそちらも紹介したかったのですが、長くなったのでまた機会があれば。


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丁寧に生きる

みなさん、お盆はどうお過ごしですか。
家族で出掛ける人は是非写真をたくさん撮って欲しいです。
私は普段通り仕事が入っていますが、お盆明けに久しぶりに会う気の置けない友人と小旅行をする予定があり、今から楽しみで心がそわそわしています。

月並みな問いですが、みなさんは旅行の必需品は何かありますか。
以前、画家の女性のツイッターで見たのですが、旅行に紙粘土を持って行き、そこで出会った壁や柱などの模様を型取って持ち帰るというようなツイートが画像と共にあり、洒落た思い出の残し方だなぁと感じました。壁や柱を傷めないように気を付けているという内容も記載されていたのですが、後に批判がありツイートは削除され代わりに謝罪文が投稿されました。私は素敵だなぁと思ったのですが。
当の私はといえば、もちろんカメラは持って行くのですが、他に本を一冊持って行きます。
幸い近所に図書館があるので、そこで旅行に合う本を選びます。小説でもエッセイでも専門書でもジャンルはなんでもいいのですが、澄んだ印象のものがいいです。
その一冊が旅のアクセントになることもあれば一切読まないこともあります。
学生時代、いつも悶々としていた私は古今東西様々な文学を読み漁りましたが、今では本を読むのは旅行のときぐらいかもしれません。でも、あまりないその時間の流れは非日常のとても心地の良いものです。

旅行における読書に限ったことではありませんが、ここ数年、丁寧な生活を意識しています。
心掛けているというより、小さく意識しているという程度です。
私は30歳を過ぎるまで漠然とした夢と少し特異な死生観がありました。
そしてその時の生活は“いつかなりたい自分になるための過程”に過ぎないと常に思っていたので、とても雑に生きてきました。
「どうせすぐ引っ越すから部屋を整えてもしょうがない」「お金を貯めるために働いてるんだから仕事は無になってひたすら我慢」「休日はなにか為になることしなきゃ」
努力しなきゃ我慢しなきゃという強迫観念・才能がないという卑下・努力していないという自己嫌悪・ラクしたい遊びたいという葛藤を抱え中途半端な人生を歩んできました。
しかし、30歳を過ぎた辺りから自然と肯定的にそれまで思い描いていた色々な事に諦めがついて、無意識のうちに極端に思考も志向も嗜好もガラッと変わりました。
部屋を住み心地の良いように整え、食べるものに気を遣い、朝は少し早く起きてコーヒー豆を挽き、休日はカーテンを開けてゆっくり過ごす。
きっと多くの人が意識せずとも当たり前にできるようなことでしょう。
長く遠回りをしましたが、私は今やっと日常を大切に生きることができていると感じます。

なぜ旅行の話からこのような話をしたかというと、これは写真にも繋がります。
現代のカメラはスマホや一眼レフなど、ほとんどがデジタルのデータなのでフィルムの消費を気にすることなく何枚でも撮ることができます。
私が撮影をするときも、細かく露出やピントや構図を変えながら同じ被写体を何十枚も撮ります。後でその中から良いものを編集するというかたちです。
自分でやっておいて、私はこれが嫌いです。
理想は一枚の写真をしっかり設定を調整して撮る事ですが、如何せん一発でバッチリきめるのは難しく、後にもっとこうしておけばよかったと悔いないようにと“無駄に”たくさん撮ってしまいます。
もちろんポートレートなどは一瞬一瞬で表情が変わるので大量に撮るのが効果的な場合も多いのですが、固定したポージングや風景やこと建造物などにおいては一枚一枚を丁寧に撮って、それが納得できるものであることが理想です。

今あえてフィルムカメラを使う人も多いようで、私も関心はあるのですが、色々理由をつけて行動を後回しにしてしまっています。
フィルムにしてもデジタルにしても、一回のシャッターの重みを意識するかどうかは普段の生活にも繋がると思った寒蝉鳴お休みの午後でした。よい日常を。


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五感と記憶

今年は浴衣姿の女性や縁日の光景を撮りたいと思っているのですが、なかなか機会やタイミングに恵まれず、まだ2022・夏の写真は撮れずにいます。
8月の火の国まつり総踊りは絶好の機会だと考えていたのですが、ぴったり仕事が入っているので泣く泣く断念です。そもそも開催が危ぶまれているようですが。コロナ禍というのもありますが、小さなお祭りはあまり情報が出回らないので良さげな催しがあるときはぜひ教えてください。

さて、夏に限ったことではありませんが、みなさんは折に触れて蘇る記憶というのはありますか。
“懐かしい”という表現とは少し違うかもしれませんが、受動的に体感したとき不意に喚起する記憶というものが私はとても好きです。それがネガティブな記憶だったらトラウマですが、今回はポジティブな記憶・感覚の場合のお話です。

思い起こされる記憶を、起因する五感それぞれに当てはめて分類します。
一番わかりやすいのは聴覚によって想起される記憶でしょう。昔よく聴いていた曲を聴いて当時を思い出すというのは多くの人が経験されていると思います。自身が歩んできた人生の時期時期にそれぞれ思い出の曲があるというのは記憶の個性です。
そして視覚によって想起される記憶。写真はこれに入るでしょう。見て当時を思い出す写真というのは写真家としては理想ですが、なかなか難しそうです。視覚というのは日常生活で最も情報量が多そうなので、意外とこれは少ないかもしれません。絵画の中には記憶を呼び起こすことのできるものもありますが、これはまた別の機会にお話しします。
次に味覚。“おふくろの味”という言葉があるように、味覚にも記憶を呼び起こすことがあるでしょう。漫画やドラマでは依頼人が主人公の料理人やソムリエに自分の思い出の料理を作らせたりワインを探させて、口にした瞬間涙を流すというのがありますが、私は経験に乏しいです。
そして嗅覚によって想起される記憶。香水の香りが苦手な人もいますが、私は好きです。街ですれ違った人の香水の香りでふと昔会った人を思い出すときの感情はさながらback numberの歌詞です。車内や家の中にも来訪者しか気づかない独特の匂いがあってちょっと不思議な感覚を覚えます。キンモクセイの香りが好きな人も多いのではないでしょうか。夏の終焉を告げ、これからいよいよ肌寒い季節になっていくんだなぁと心が弾み、甘い香りとともにこの季節の様々な思い出が記憶を巡ります。
そして最後に触覚。触覚によって想起される記憶というといまいちわかりづらいかもしれませんが、肌で感じる空気感です。私はこれが一番好きです。街を歩いていてふと感じた冷たく乾いた風でかつて訪れた遠い土地の記憶が蘇ったり、雨の日に心地良い空気を感じた瞬間に子どもの頃のことを思い出したり、自分の意志とは関係なくやってくる一番受動的な記憶で、滅多にないこの感覚が狂おしいほど好きです。きっとこれを感じようと意識していると作為的な創造物のように嘘くさくなってしまうので、自然に感じられる瞬間を大切にしたいと思います。

毎日暑い暑いとぼやいてしまいますが無駄にはしたくない、2022・夏。


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スマホの中

みなさん、スマホで撮った写真はどうしていますか。

スマホが普及したのはここ10年ぐらい、カメラ付き携帯電話やデジタルカメラは20年ぐらいでしょうか。
それ以前はカメラといえばフィルムカメラだったのでもちろん現像しないと写真を見ることはできませんでした。
私が子どもの頃は写ルンですを持ち歩いてよく友達の写真を撮ったものです。

現代はスマホで気軽に綺麗な写真が撮れるので、みなさんのスマホの中にはきっと素敵な写真がいっぱい入っていると思います。
しかし、とりあえず画像を残しておいてもなかなか見返す機会は少ないのではないでしょうか。
せっかく撮ったお気に入りの写真や大切な思い出の写真は現像して形にしてみませんか。
部屋に飾るのもいいし、アルバムに収めるのもいいし、写真立てに入れてプレゼントするのもいいと思います。

私の場合、写真をたくさん撮って帰ったあとは、音楽やラジオを聴きながら夜な夜な編集作業をする時間がとても好きなんですが、いざ現像に出してみるとスマホやパソコンの画面で見ていたときのように思い描いたような写真に仕上がらないことが多々あります。
単純に写真の技術やデータの質の問題もありますが、どうやら“現像”もこだわればとても奥が深い様です。

以前、富山県にある≪ミュゼふくおかカメラ館≫という写真専門のミュージアムを訪れた際、富士フィルムのフォトコンテストの入賞作品展が開催されていたのですが、審査員の講評の中にこのような言葉がありました。
「みなさん写真の撮影にはとてもこだわるけれど現像には同じぐらい力を入れてこだわらない」
たしかにそうだなぁと感じました。巷のカメラマンの仕事はわかりませんが、作家として活動する写真家や現代美術の芸術家は実際に特殊な印刷の機械がある工場まで行って作品を作り上げることがあります。
近年、ツイッターやインスタグラムなどのSNS上では、ものすごく素晴らしい写真を撮るアマチュアカメラマンがたくさんいて、技術的にプロとアマチュアの境界線が曖昧な部分もあるかと思いますが、現像までこだわるかどうかは真のプロフェッショナルとそうでないプロやアマチュアの違いのうちの一つかもしれません。
さすがに日々の写真を現像する度にそこまでこだわって仕上げるのは難しく、費用面でも厳しいですが、“写真”をやる以上、作品として出す際にはとことん突き詰めてこだわってやるべきであるし、普段の写真でも妥協点は高くありたいと思っています。


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